本間美術館

◎2018年7月27日金
 
 富裕層に対する世間からの嫉視という宿命的な問題に対して、江戸期の豪商酒田本間家が講じた方策は二つ。一つは鶴ヶ岡城主(庄内藩主)酒井氏との密接不可分の関係の構築、巧みな資金運用によって庄内地方の農業と商業をほぼ独占するに至った酒田本間家は、莫大な資産を背景に藩の財政難を救済するとともに、藩政改革を物心両面で支援。もう一つは公共事業による社会資本の整備、近代までの庄内地方では、大大阪時代の大阪と同様に、主だった公共インフラは民間主導で整備が進められてきた。本間家の別荘(鶴舞園)の建設は、どちらかと言うと失業者対策が目的。
 大規模な経済政策(地域還元)によって支配層及び被支配層からの支持又は信頼を獲得した酒田本間家の権勢は、単なる士分に止まらず、事実上藩主を凌いでいたわけだが、本間家の代々の当主は驕慢を自戒し、少なくとも表面上謙虚を装った。衣食足れば則ち栄辱を知る、本間家を介した富の循環によって、庄内地方では藩主と領民の間に強固な絆が結ばれ、三方領地替えの幕命の撤回や、戊辰戦争終結時の「名誉ある降伏」へと繋がっていく。
 明治維新以降、庄内藩主一族は東京に移住、物流システムの主流が北前船から鉄道、大型貨物船へと移行し、酒田本間家の富と名声の半分は失われた。朝鮮半島から中国大陸へと帝国の勢力圏が拡大していく中、東北地方は重工業を想定した近代化投資が立ち遅れ、金融恐慌の影響も相俟って貧困な地域へと没落していく。そのような中で、本間家の資産は惜しげもなく地元からの投資需要に充当されていくわけだが、地政学的頽勢を持ち直すには至らず。戦後の農地改革と系列企業の破綻によって富と名声の残り半分も失われ、時間の経過とともに過去の恩義などいとも容易く忘却されてしまうかの如く、長年に亘る酒田本間家の地域貢献の歴史が、本間家の苦境に対しての、地元からの現実的な救済活動を惹起することもなく、それはせいぜい観光の素材として活用されるのみという有様だった。


 酒田駅から徒歩10分程度の距離にある清水製パンにて朝食用パンを購入、朝6時より営業開始、開店と同時に地元のお客さんが多数来店。ここの名物はジャンボと称する総菜パン、お一人様一個までと表記。巨大なロールパンの間にウィンナー、スパゲッティ、ポテトサラダ、焼きそば、ゆで卵などが挟まれる。食べる人の体格にもよるのだろうが、これを両手に持って食べようとするのは無謀、皿に置いて箸かフォークを使うべき。