酒田南洲神社

◎2016年7月29日金曜日
 
 戊辰戦争にて朝敵に指名された庄内藩は、本来正当な理由(手続き)に基づいて江戸薩摩藩邸の焼討を行った旨主張すべき立場にあった。苛烈を極めた暴政によって領民の離反又は無関心を招いた会津藩とは対照的に、庄内藩では挙国一致の戦時体制で新政府軍との戦いに臨み、戦局有利に展開する中で、名誉ある降伏を受け容れることとなった。政治力学上「有罪」であっても、正統性原理上「無罪」を主張する権利を有していたはずの庄内藩首脳部は、西郷の指示に基づく「寛大な処置」に対し、軽率にも心からの感謝の意を表してしまったのだ。
 酒田本間家からの上納金が献上されなければ、会津藩と同水準の処分が下された可能性を慮るべきであった。冷徹なリアリストである西郷に向けられた好意の一方通行によって、表面上の人的交流は盛んに行われつつも、そのことによって廃藩置県後の山形県庄内地方の地域振興に実利実益をもたらすことはなかった。明治政府の開発政策は、東北地方より北海道、朝鮮、中国大陸(満州)への予算配分が優先され、東北地方では鉱業と養蚕業を除いて大した産業が育たず、慢性的貧困に苦しむ後進地域と位置付けられた。庄内地方が東北地方の中で例外的な扱いを受けることもなかった。